2014年6月14日土曜日

興福寺―阿修羅、アイカツします!(後篇)

興福寺の前篇はこちらです。


八部衆像――天平時代からアイカツしてました!


さて、国宝館のなかでもとくに重要な位置を占める、《八部衆立像》(八躯・奈良時代・734年・国宝・脱活乾漆造)の話題に映りましょう。中心にいる《阿修羅像》はあまりにも有名です。

東京国立博物館で2009年におこなわれた 興福寺創建1300年記念 「国宝 阿修羅展」はもはや完全に伝説です。累計百万人を動員し、日本美術史研究の流れを一変させた展覧会です。
ちなみに、興福寺には今も「阿修羅ファンクラブ」なるものが存在します。造立から1300年近く経っても、衆生とハートをひとつにして、ラブライブ!というかアイカツ!してる八部衆像の慈悲の心は、海より広いと思います。マジで。ファンクラブで紹介されている高見沢俊彦さんとみうらじゅんさんの共作「愛の偶像(ラブ・アイドル)」のCDは、いまも国宝館の売店に置いてありますね。買っても握手はちょっと難しいようですが、ご検討を。

どうでもいいのですが、この情報を書くために「ラブ・アイドル」と検索したら、真っ先にスクフェスのトップページが出てきました。二次元も三次元もアイドル戦国時代といわれて久しい昨今ですが、μ'sと阿修羅像が同じページでしのぎを削っているのを見ると、なんともシュールな気持ちがこみ上げてきます。ちなみに、私はことりん推しですスピカテリブル、いい歌。

あと私は八部衆のなかだと、五部浄のお顔が好きです。実際見ると精悍な少年そのもので、とっても素敵なのですが、写真だとどうも、地元の小学校にひとりはいそうなお顔にみえるのが不思議です。光の当て方なんですかね。
あと、頭の上に載ってるのは象のかぶりものなのですが、鼻にうまいこと穴が開いてるおかげで、正面から見るとジュウシマツ住職に見えます……ちゅんちゅん。

前回取り上げた「十二神将」は「薬師如来」の眷属ですが、「八部衆」は「釈迦如来」をお護りする神々です。「十二神将」は名前の通り十二人の神さまですが、「八部衆」は八人どころではない、ものすごい数の神さまをまとめて指す名称です。
これは「八つの種族」という意味で、悟りをひらいた釈迦の前に、人だけでなく動物も、異教の神さまも、あらゆる者がすべて服従したことをあらわしています。


ダッカツ! ――プロデュース、お金かかってます


五部浄は胸より上しか残っていませんが、それでも天平時代から八躯すべてがひとりも卒業せず現存している、奇跡のようなユニット像です。興福寺はその長い歴史の中で何度も火事や戦乱に遭っているのですが、そのたび難をのがれているんですね。

実は、その奇跡には秘密があります。
この《八部衆立像》は「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」とよばれる、天平時代を大きく特徴づける、ある技法で作られています。アイカツではない。
木でもなく、金属でもなく、漆を用いて作られた像――「脱活」とは「中が空洞」といった意味の言葉で、実際八部衆はどれも1.5m程の像高があるわりに、15kg程度の重さしかありません。アイドルにしたって軽すぎです。とはいえこの長所があるために、火事などで焼け出されたときにも、簡単に持ち運ぶことができました。

中国から伝わった技法ではありますが、この時代の作例は、大陸にはほぼ全く現存していません。日本でも天平時代の一時期にしか使われなかった技法で、作例のほとんどは興福寺と東大寺に集中しています。

作り方は、まず塑像(粘土を固めて作る像)でおおまかなモデリングをした後、漆に浸した麻布を重ねて漆を固着させます。そのあと、外科手術のような形で背中を切り開いて、中の土を取り出して、代わりに木の骨組みを埋め込みます。そこからさらに細部を形成したり、彩色をして完成。

漆は今も昔もとにかく貴重な材料です。だいたい現代でも、一斗缶で200万円程度します。それをぜいたくに使って大きな像を造るとなると、とにかくお金がかかるんですね。東大寺法華堂の不空羂索観音や四天王像も脱活乾漆なのですが、ちょっと考えられないレベルの漆の使い方をしています。
また、このタイプのモデリングの像は、静的なリアリスムの表現には長けていても、なかなか劇的な表現が難しいことも特徴に加えておきましょう。そのため、ほどなくして木彫へと、造像の中心は移っていきます。


お父さん、頑張る――阿修羅像と夜の空


そんな中で出来上がったのが、《八部衆像》です。見ごたえがあるのは、やはりそれぞれの像の持つ、甘美な表情ですね。



この《阿修羅像》は阿修羅族の王の姿です。力の神である帝釈天(=インドラ)との終わりなき戦いの無意味さに気づき、釈迦に帰依することを決めたときの顔、ともいわれます。
この像ではまるで少年のように見える阿修羅(=アスラ)ですが、実際は美しい娘を持つ、結構いいお父さんです。お父さん、いったいどうして戦うことになってしまったのでしょうか……。

本来正義の神であった阿修羅には、舎脂(=シャチー)という美しい娘がいました。阿修羅はもともと帝釈天にこの娘を嫁がせようと思っていました――ですが、なんと帝釈天は待ちきれずに舎脂を凌辱してしまいます。マジかよ。
それに怒った阿修羅は復讐の鬼と化し、帝釈天の永遠のライバルとして戦いを挑むようになるのです。む、惨い……。まるで全国のお父さんの悲しみを代弁しているようです。

しかし、話はこれで終わりません。さらに当の舎脂が帝釈天を愛してしまっていることに気づき、阿修羅の怒りはますますヒートアップします。
ですが、何度挑んでも勝てない。阿修羅、戦闘神なのですがとにかく負けっぱなしなのです。そして無数の敗北をかさねたあとにようやく戦いの道……「修羅の道」の無意味さに気づき、仏道に帰依するのです。

阿修羅からすればきわめて理不尽きわまりないストーリーなのですが、人生とはそもそもめちゃめちゃ理不尽、ということを教えてくれるのが、この像なんですね。つらい……。

ちなみに阿修羅像の手は後補の部分が多いのですが、よくよく見ると正面の合掌する掌の位置が、ちょっとズレているのがわかります。右手が明治時代の後補なのですが、左右同じ長さで作ると合掌できないことから、少し長めに補われています。もしかしたら、本来は合掌していなかったのかもしれません。

戦いの神である阿修羅ですが、美術作品ではときどき、その手に武器のみならず、太陽と月を持っている場合があります。なんでも、阿修羅族の王のなかには、日食と月食を司る天体の神がおり、気まぐれに蝕を起こしていたのだそうです。お茶目。でも結構迷惑。

ですので、この阿修羅像も本来は、両手の間に日月を持っていた可能性があるのです。

もともと阿修羅とゾロアスター教の「光の神」アフラ=マズダーが同一の語源であったことから考えると、この事実は(特に仏教がどのように異教の神を取り込んだのか、を考えるときに)とても興味深いものがあります。阿修羅は戦いだけでなく、光を司る神でもあったんですね。

《十大弟子像》と《八部衆》という脱活乾漆像の傑作たちに囲まれていたら、なんだかお腹がいっぱいになってきました。ですが、まだ旅は始まったばかり!
次に向かうのは東大寺です。二度目なんですけど、この日の気温、34℃あります。何故この日に日食を起こしてくれなかったんだろうと阿修羅に問いかけつつ、冷房のきいた国宝館を後にするのでした……。

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