2014年6月13日金曜日

興福寺―歴史の荒波を生きぬいた傑作の数々(前篇)


さて、奈良にやってきました。ここから大学の先生や友人たちとの研修旅行の始まりです。
最初に訪れたのは興福寺。法相宗の大本山です。藤原鎌足の病気平癒のために造営され、藤原不比等の時代には平城京に移されました。
近鉄奈良駅から徒歩10分ほどで行ける立地のうえ、《阿修羅像》を中心とする、さまざまな天平時代の傑作が残っていることで知られます。焼き討ちや火災、荒廃といった憂き目に見舞われながらも、絶大な信仰のもとに何度も復興してきた、不死鳥のようなお寺です。




荒廃と再建のなかで


興福寺の伽藍(境内の施設)には、元来多種多様なお堂がありました。
金堂は本来中金堂・西金堂・東金堂の三つがありました。ですが、東金堂以外は焼失しており、中金堂・西金堂は遺構しか残っていません。現在、興福寺の中でももっとも重要なお堂である中金堂の再建がすすめられており、巨大な足場を見ることができます。

南円堂と北円堂は、全国にある八角円堂のなかでもとりわけ美しいと有名です。南円堂は仏教世界の南方に位置する、観音菩薩のお住まい「補陀落山」をモチーフにしています。チベット・ラサのポタラ宮も補陀落山からとられています。中にいらっしゃるのは不空羂索観音菩薩像。

また、伽藍の中で最も重要な存在である仏塔――五重塔は、室町時代の再建です。日本の五重塔としては、前回の東寺に次ぐ高さを持つ、堂々たる塔です。この五重塔、相当な波乱万丈の歴史をたどってきました。
明治時代に廃仏毀釈の波が吹き荒れたとき、興福寺は困窮をきわめました。お坊さんは次々に春日大社に改宗し、貴重な文献は捨てられ、寺は荒廃をきわめ……。そんななかで、なんとこの五重塔は競売にかけられてしまいます。
仏教の寺院のなかでもっとも重要な存在は、他でもない仏舎利(=釈迦の遺骨)をおさめる仏塔です。それを売りに出してしまうなんて!

しかも驚くべきはその顛末で、五重塔は五十円で落札されてしまいます。激安。うまい棒五本分。五重塔だけに五十円って、完全にブラックジョークの域です。
当時の物価からみればさすがに、うまい棒五本分ということはありませんが、それにしたってアメ横並みのたたき売りっぷりですね。

で、この落札者が五重塔をどうしようとしたかというと、これがまたすごい。上部の相輪などの「使える」金属部分だけをごっそり抜き取って、残りは全部燃やしちゃえ! という計画を持ち出したのです。おーい。
結局この計画は、地元住民の猛反対によって頓挫しました。ですがその理由がまたすさまじく、「近隣(奈良町)に火の粉が飛んで火事になるからやめろ」というもの。そろそろどこをツッコんだらいいかわからなくなるレベルです。とりあえず、残ってよかった。

明治期の廃仏毀釈の嵐は、全国どこをみてもすさまじいものがあります。今ではごくごく当たり前にいわれている「文化財保護」という概念は、ごくごく最近生まれてきたものであることが、このエピソードからも伺えます。


国宝館――傑作の数々!


にしても、マジで暑い。興福寺にお参りしたのは六月二日だったのですが、この日の奈良の気温、34℃です。ぶっちゃけ冷房のないところにいられる気がしない。外の涼める木陰は、全部鹿に占領されていました。

というわけで、かの《阿修羅像》が収蔵されている国宝館は、そもそも冷房がガンガン効いているというだけで天国か浄土のような場所でした。ダメだ……まだ旅行が始まって15分も経っていないのに既に信心が足りない……。

とはいえ、見どころは本当にたくさん!紹介してもしてもしきれないくらいです!
まずは《板彫 十二神将立像》(平安時代・板彫)ですね。十二神将は、東方瑠璃光浄土にいらっしゃる、薬師如来の眷属です。薬師寺の東金堂は薬師如来と日光・月光菩薩が本尊なのですが、もともとはそこに安置されていたと考えられています。
たった厚さ3センチの板に彫られた、筋骨隆々たる像の数々。歌舞伎の見栄のようでもあり、ジョジョ立ちのようでもあり……ぴたりとフリーズしていながら、よくよく見るときわめて動的です。運慶・快慶をはじめとする鎌倉彫刻の萌芽すらうかがえます。なんか、集中線が似合う。

あとは本尊の《千手観音菩薩立像》(鎌倉時代・寄木造・桧材)ですね。像高5.2mという、圧倒的な迫力!
千手観音は40(×25)+2本もの手に、非常にいろいろな種類の持物をもちます。そのため、一体の完成された像としてバランスを取るのは、非常に難しいです。往々にして「やりすぎ」感も出てしまうのですが、その点この像は非常にうまく処理しています。それぞれの手が短いのが特徴で、巨大な鎌倉彫刻でありながら、とても静かな印象があります。

そして、この千手観音像と対照的な鎌倉時代の傑作が、かの有名な《天燈鬼・龍燈鬼像》(康弁作・鎌倉時代・寄木造・桧材)です。

私は美術史を勉強してはいるのですが、実は大学に上がるまで、奈良に行ったことがありませんでした。奈良にある仏像やお寺というのは、受験のために日本史の勉強で叩きこまれていても、現物を見たことが長らくなかったのです。
特に鎌倉時代の文化史……慶派の系図を覚えるのは、大の苦手でした。康弁って誰! 天燈鬼・龍燈鬼なんて聞いたこともないんですけど! でも実物を見たらマジですごかった!! いやはや、「百聞は一見に如かず」とはこのことです。

帝釈天の部下で、東西南北を守る四天王は、たいていどこでも邪鬼を踏みつけています。仏教が日本に伝わってから二千年近くもの間、彼らは踏まれ続けているのです。何をやらかしたのか無学な私にはよくわかりませんが、とにかく踏まれ続けています。これだけ踏まれまくっていたら、もしかしたらどこかでいけない悦びに転化しちゃうのでは……とか考えてしまう私のほうが、おそらく邪鬼よりよっぽど邪心にあふれているのではと思います。

えっと、なんの話してたんだっけ。天燈鬼と龍燈鬼ですね。この踏まれまくっているドM邪鬼が、仏様を照らすために燈籠を持って立ち上がったのが、この一対の像です。かわいいんだ、これが。

見分け方は簡単で、身体に龍っぽいのが巻きついているのが龍燈鬼です。ふんどし姿が男前ですね。大きな玉眼がぐりぐりと輝いていて、静かな気迫をたたえています。
天燈鬼は角が二本ついている方で、まさに鎌倉期らしいすさまじい筋肉表現がみどころです。「どりゃー!」とか「うりゃー!」とか、セリフをつけたくなるアグレッシブさです。踏まれ続ける人生から解放された喜びが、腕や胸の筋肉からほとばしっています。写真より実物の方が、やっぱりカッコいいですね。

さて、ここまで国宝館の作品をいくつか取り上げてきました。ですがなんということでしょう、メインであるはずの天平期の像について、まったく触れられていません!!

本当は一記事で終わらせるつもりだったのですが、無理っぽいです。後篇に続く。

0 件のコメント:

コメントを投稿