2014年6月17日火曜日

東大寺―壮大!天平時代の蓮華の花びら(前編)


さて、東大寺にやってきました。
とにかく修学旅行生が多いシーズンということもあって、参道は人でいっぱいです。
この記事ではひとつにまとめていますが、実は今回の旅行では二日にわたって、東大寺にお参りしています。東大寺の伽藍には実にさまざまなお堂がありますが、今回は二日目の大仏殿からとりあげていきます。

ふれられる近さで……フラクタルと蓮華蔵世界




さて、こちらが今回お参りしたときの大仏殿です。

なんということでしょう。
匠の粋な計らいにより人がゼロです。

嘘です。朝六時にiPhoneのアラームに叩き起こされ、朝七時半にお参りしたので修学旅行生がいないだけです。それにしても、修学旅行生がいないだけで別のお寺のようです。大昔はきっとこうであったのだろうという、静けさと広大さをひたすら感じられます。
今回はお寺さんの特別な計らいにより、東大寺大仏殿の盧舎那仏(大仏)の《台座》を間近で拝ませていただくことができました。激レア。




単なる台座と侮るなかれ。東大寺の大仏は大部分が鎌倉時代-江戸時代の後補ですが、蓮の花を模したこの台座は奈良時代からの現存です。しかもこの台座の蓮弁(蓮の花びら)には一枚一枚、「華厳経」に説かれる「蓮華蔵世界」をビジュアライズした絵画が丁寧に描かれていて、実に美しいのです。



《東大寺大仏蓮弁線刻図》{拓本}(奈良時代・国宝)

一応東大寺ミュージアムや大仏殿の正面にレプリカが置かれてはいますが、上がらせていただいてナマで拝める機会は本当にめったにないです。
天平時代の仏画は多くが焼失しているため、とても貴重な作例です。光背などはコンパスを用いて描かれていますが、ほとんどはフリーハンド。
50cmくらいの近さまで寄ることができるといっても、一枚一枚が数メートルという大きさなうえに、かなりこまかい線彫がなされていますから、お参りする際は単眼鏡必須です。

菩薩の衣紋(衣の襞)などはきわめて優美な線が引かれていることがわかります。

当時の「仏像」の技術(漆や金属)ではなかなか表現が難しい、非常に複雑な曲線美です。(図像自体は唐から来たものでしょうが…)彫師には相当な技量があったことがうかがえます。この線刻よりさらに時代が遡る、法隆寺の金堂壁画と比べるのも面白いでしょう。





「華厳経」というお経のタイトルは、「さまざまな花によって荘厳(=飾る)されたお経」という意味です。仏が修行の末に悟った世界を、美しい蓮華の花によって表現しています。過去・現在・未来・あらゆる世界の如来の総体である盧舎那仏。盧舎那仏の坐する蓮華は千枚の花弁があり、その一枚一枚のなかにも、さらに無数の世界が蔵されています。その様相は、さながらフラクタルのようです。極小の世界が極大の世界と同一なのです。
そんな到底ビジュアライズしようもない観念を、苦心のすえにどうにかこうにかこの世に顕現させようとしたのが、この東大寺の大仏と蓮弁なのです。すごい話だ。

もう一度繰り返します。単なる台座と侮るなかれ。天平時代から受け継がれたこの14枚の蓮の花びらには、華厳の教理の真髄が詰まっている、と言い換えることもできるのです。
華厳経の世界を示した仏教美術、とりわけ仏画というのは、日本にも日本以外にもきわめて例が少ないです。ぜひ、一生に一度は。

なかば余談にはなりますが、大仏の真下から見上げる虚空蔵菩薩と如意輪観音、相当な迫力でした。当時はおそらく、一般人がこうした位置から像を見上げるなんてことは、まったく想定していなかったのでしょうから、どこまで作為のうえで鋳造したのかはわかりません。ですが、こうした巨像は真下から見上げるのがとかく効きます。長谷寺の十一面観音などは、とりわけそれを巧く用いていると思いますが、「見上げる」という行為はただただ純粋な畏怖の感情を起こさせると常々感じます。大きいのは、おそろしいことです。

南大門の金剛力士像―動く××と職人魂


さて、「見上げる」といえば。この東大寺には、あきらかに一般人が「見上げる」ことを想定した像も存在します。ご存知、南大門の《金剛力士像》(鎌倉時代・国宝・寄木造)です。運慶・快慶とその工房がたった二ヶ月で造り上げたという、まさに神業のような寄木造の傑作です。

といっても、今は一面に張られている金網のおかげで、ちょっと下から見上げづらいのが難点ですね。ちなみに網は鳩のフン避けらしいです。

しかし、この阿形・吽形の像はやはり下から見上げるのがおススメ。それには理由があります。
この時代の寄木造の仏像は、だいたい事前にミニチュアの模型を作ってから、それを拡大するような形で実物を造っていました。現代の建築士が事前に図面を引いて、模型を作ってみるのと同じですね。
この《金剛力士像》もそのように作られたらしいのですが、どうやら完成後にいくつかパーツを変更したようです。なにしろ前代未聞の巨像ですから、ミニチュアから拡大した時、「コレジャナイ感」があったらしいのです。

たとえば、下から見上げた時に目線が合うように、眼球の位置を調整しています。あとわかりやすい変更点としては、乳首の位置を外側にずらしています。乳首って。
より「胸を張った」姿勢になるように、とのことなのですが、乳首をずらすだけで本当に胸を張った見た目になるのか、誰かに検証してもらいたいところです。

金網のスキマから見上げると、こう、胸の真ん中あたりにもともと乳首があった場所がまるくふちどられているのが、今でもわかります。修学旅行中の小中学生を尻目に、金剛力士像の乳首をガン見する大学生の一団、割とヤバかった。

まだまだ東大寺には見るところがありますが、今日はひとまずここまで。次は鹿と一緒に山を登ります。

2014年6月14日土曜日

興福寺―阿修羅、アイカツします!(後篇)

興福寺の前篇はこちらです。


八部衆像――天平時代からアイカツしてました!


さて、国宝館のなかでもとくに重要な位置を占める、《八部衆立像》(八躯・奈良時代・734年・国宝・脱活乾漆造)の話題に映りましょう。中心にいる《阿修羅像》はあまりにも有名です。

東京国立博物館で2009年におこなわれた 興福寺創建1300年記念 「国宝 阿修羅展」はもはや完全に伝説です。累計百万人を動員し、日本美術史研究の流れを一変させた展覧会です。
ちなみに、興福寺には今も「阿修羅ファンクラブ」なるものが存在します。造立から1300年近く経っても、衆生とハートをひとつにして、ラブライブ!というかアイカツ!してる八部衆像の慈悲の心は、海より広いと思います。マジで。ファンクラブで紹介されている高見沢俊彦さんとみうらじゅんさんの共作「愛の偶像(ラブ・アイドル)」のCDは、いまも国宝館の売店に置いてありますね。買っても握手はちょっと難しいようですが、ご検討を。

どうでもいいのですが、この情報を書くために「ラブ・アイドル」と検索したら、真っ先にスクフェスのトップページが出てきました。二次元も三次元もアイドル戦国時代といわれて久しい昨今ですが、μ'sと阿修羅像が同じページでしのぎを削っているのを見ると、なんともシュールな気持ちがこみ上げてきます。ちなみに、私はことりん推しですスピカテリブル、いい歌。

あと私は八部衆のなかだと、五部浄のお顔が好きです。実際見ると精悍な少年そのもので、とっても素敵なのですが、写真だとどうも、地元の小学校にひとりはいそうなお顔にみえるのが不思議です。光の当て方なんですかね。
あと、頭の上に載ってるのは象のかぶりものなのですが、鼻にうまいこと穴が開いてるおかげで、正面から見るとジュウシマツ住職に見えます……ちゅんちゅん。

前回取り上げた「十二神将」は「薬師如来」の眷属ですが、「八部衆」は「釈迦如来」をお護りする神々です。「十二神将」は名前の通り十二人の神さまですが、「八部衆」は八人どころではない、ものすごい数の神さまをまとめて指す名称です。
これは「八つの種族」という意味で、悟りをひらいた釈迦の前に、人だけでなく動物も、異教の神さまも、あらゆる者がすべて服従したことをあらわしています。


ダッカツ! ――プロデュース、お金かかってます


五部浄は胸より上しか残っていませんが、それでも天平時代から八躯すべてがひとりも卒業せず現存している、奇跡のようなユニット像です。興福寺はその長い歴史の中で何度も火事や戦乱に遭っているのですが、そのたび難をのがれているんですね。

実は、その奇跡には秘密があります。
この《八部衆立像》は「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」とよばれる、天平時代を大きく特徴づける、ある技法で作られています。アイカツではない。
木でもなく、金属でもなく、漆を用いて作られた像――「脱活」とは「中が空洞」といった意味の言葉で、実際八部衆はどれも1.5m程の像高があるわりに、15kg程度の重さしかありません。アイドルにしたって軽すぎです。とはいえこの長所があるために、火事などで焼け出されたときにも、簡単に持ち運ぶことができました。

中国から伝わった技法ではありますが、この時代の作例は、大陸にはほぼ全く現存していません。日本でも天平時代の一時期にしか使われなかった技法で、作例のほとんどは興福寺と東大寺に集中しています。

作り方は、まず塑像(粘土を固めて作る像)でおおまかなモデリングをした後、漆に浸した麻布を重ねて漆を固着させます。そのあと、外科手術のような形で背中を切り開いて、中の土を取り出して、代わりに木の骨組みを埋め込みます。そこからさらに細部を形成したり、彩色をして完成。

漆は今も昔もとにかく貴重な材料です。だいたい現代でも、一斗缶で200万円程度します。それをぜいたくに使って大きな像を造るとなると、とにかくお金がかかるんですね。東大寺法華堂の不空羂索観音や四天王像も脱活乾漆なのですが、ちょっと考えられないレベルの漆の使い方をしています。
また、このタイプのモデリングの像は、静的なリアリスムの表現には長けていても、なかなか劇的な表現が難しいことも特徴に加えておきましょう。そのため、ほどなくして木彫へと、造像の中心は移っていきます。


お父さん、頑張る――阿修羅像と夜の空


そんな中で出来上がったのが、《八部衆像》です。見ごたえがあるのは、やはりそれぞれの像の持つ、甘美な表情ですね。



この《阿修羅像》は阿修羅族の王の姿です。力の神である帝釈天(=インドラ)との終わりなき戦いの無意味さに気づき、釈迦に帰依することを決めたときの顔、ともいわれます。
この像ではまるで少年のように見える阿修羅(=アスラ)ですが、実際は美しい娘を持つ、結構いいお父さんです。お父さん、いったいどうして戦うことになってしまったのでしょうか……。

本来正義の神であった阿修羅には、舎脂(=シャチー)という美しい娘がいました。阿修羅はもともと帝釈天にこの娘を嫁がせようと思っていました――ですが、なんと帝釈天は待ちきれずに舎脂を凌辱してしまいます。マジかよ。
それに怒った阿修羅は復讐の鬼と化し、帝釈天の永遠のライバルとして戦いを挑むようになるのです。む、惨い……。まるで全国のお父さんの悲しみを代弁しているようです。

しかし、話はこれで終わりません。さらに当の舎脂が帝釈天を愛してしまっていることに気づき、阿修羅の怒りはますますヒートアップします。
ですが、何度挑んでも勝てない。阿修羅、戦闘神なのですがとにかく負けっぱなしなのです。そして無数の敗北をかさねたあとにようやく戦いの道……「修羅の道」の無意味さに気づき、仏道に帰依するのです。

阿修羅からすればきわめて理不尽きわまりないストーリーなのですが、人生とはそもそもめちゃめちゃ理不尽、ということを教えてくれるのが、この像なんですね。つらい……。

ちなみに阿修羅像の手は後補の部分が多いのですが、よくよく見ると正面の合掌する掌の位置が、ちょっとズレているのがわかります。右手が明治時代の後補なのですが、左右同じ長さで作ると合掌できないことから、少し長めに補われています。もしかしたら、本来は合掌していなかったのかもしれません。

戦いの神である阿修羅ですが、美術作品ではときどき、その手に武器のみならず、太陽と月を持っている場合があります。なんでも、阿修羅族の王のなかには、日食と月食を司る天体の神がおり、気まぐれに蝕を起こしていたのだそうです。お茶目。でも結構迷惑。

ですので、この阿修羅像も本来は、両手の間に日月を持っていた可能性があるのです。

もともと阿修羅とゾロアスター教の「光の神」アフラ=マズダーが同一の語源であったことから考えると、この事実は(特に仏教がどのように異教の神を取り込んだのか、を考えるときに)とても興味深いものがあります。阿修羅は戦いだけでなく、光を司る神でもあったんですね。

《十大弟子像》と《八部衆》という脱活乾漆像の傑作たちに囲まれていたら、なんだかお腹がいっぱいになってきました。ですが、まだ旅は始まったばかり!
次に向かうのは東大寺です。二度目なんですけど、この日の気温、34℃あります。何故この日に日食を起こしてくれなかったんだろうと阿修羅に問いかけつつ、冷房のきいた国宝館を後にするのでした……。

2014年6月13日金曜日

興福寺―歴史の荒波を生きぬいた傑作の数々(前篇)


さて、奈良にやってきました。ここから大学の先生や友人たちとの研修旅行の始まりです。
最初に訪れたのは興福寺。法相宗の大本山です。藤原鎌足の病気平癒のために造営され、藤原不比等の時代には平城京に移されました。
近鉄奈良駅から徒歩10分ほどで行ける立地のうえ、《阿修羅像》を中心とする、さまざまな天平時代の傑作が残っていることで知られます。焼き討ちや火災、荒廃といった憂き目に見舞われながらも、絶大な信仰のもとに何度も復興してきた、不死鳥のようなお寺です。




荒廃と再建のなかで


興福寺の伽藍(境内の施設)には、元来多種多様なお堂がありました。
金堂は本来中金堂・西金堂・東金堂の三つがありました。ですが、東金堂以外は焼失しており、中金堂・西金堂は遺構しか残っていません。現在、興福寺の中でももっとも重要なお堂である中金堂の再建がすすめられており、巨大な足場を見ることができます。

南円堂と北円堂は、全国にある八角円堂のなかでもとりわけ美しいと有名です。南円堂は仏教世界の南方に位置する、観音菩薩のお住まい「補陀落山」をモチーフにしています。チベット・ラサのポタラ宮も補陀落山からとられています。中にいらっしゃるのは不空羂索観音菩薩像。

また、伽藍の中で最も重要な存在である仏塔――五重塔は、室町時代の再建です。日本の五重塔としては、前回の東寺に次ぐ高さを持つ、堂々たる塔です。この五重塔、相当な波乱万丈の歴史をたどってきました。
明治時代に廃仏毀釈の波が吹き荒れたとき、興福寺は困窮をきわめました。お坊さんは次々に春日大社に改宗し、貴重な文献は捨てられ、寺は荒廃をきわめ……。そんななかで、なんとこの五重塔は競売にかけられてしまいます。
仏教の寺院のなかでもっとも重要な存在は、他でもない仏舎利(=釈迦の遺骨)をおさめる仏塔です。それを売りに出してしまうなんて!

しかも驚くべきはその顛末で、五重塔は五十円で落札されてしまいます。激安。うまい棒五本分。五重塔だけに五十円って、完全にブラックジョークの域です。
当時の物価からみればさすがに、うまい棒五本分ということはありませんが、それにしたってアメ横並みのたたき売りっぷりですね。

で、この落札者が五重塔をどうしようとしたかというと、これがまたすごい。上部の相輪などの「使える」金属部分だけをごっそり抜き取って、残りは全部燃やしちゃえ! という計画を持ち出したのです。おーい。
結局この計画は、地元住民の猛反対によって頓挫しました。ですがその理由がまたすさまじく、「近隣(奈良町)に火の粉が飛んで火事になるからやめろ」というもの。そろそろどこをツッコんだらいいかわからなくなるレベルです。とりあえず、残ってよかった。

明治期の廃仏毀釈の嵐は、全国どこをみてもすさまじいものがあります。今ではごくごく当たり前にいわれている「文化財保護」という概念は、ごくごく最近生まれてきたものであることが、このエピソードからも伺えます。


国宝館――傑作の数々!


にしても、マジで暑い。興福寺にお参りしたのは六月二日だったのですが、この日の奈良の気温、34℃です。ぶっちゃけ冷房のないところにいられる気がしない。外の涼める木陰は、全部鹿に占領されていました。

というわけで、かの《阿修羅像》が収蔵されている国宝館は、そもそも冷房がガンガン効いているというだけで天国か浄土のような場所でした。ダメだ……まだ旅行が始まって15分も経っていないのに既に信心が足りない……。

とはいえ、見どころは本当にたくさん!紹介してもしてもしきれないくらいです!
まずは《板彫 十二神将立像》(平安時代・板彫)ですね。十二神将は、東方瑠璃光浄土にいらっしゃる、薬師如来の眷属です。薬師寺の東金堂は薬師如来と日光・月光菩薩が本尊なのですが、もともとはそこに安置されていたと考えられています。
たった厚さ3センチの板に彫られた、筋骨隆々たる像の数々。歌舞伎の見栄のようでもあり、ジョジョ立ちのようでもあり……ぴたりとフリーズしていながら、よくよく見るときわめて動的です。運慶・快慶をはじめとする鎌倉彫刻の萌芽すらうかがえます。なんか、集中線が似合う。

あとは本尊の《千手観音菩薩立像》(鎌倉時代・寄木造・桧材)ですね。像高5.2mという、圧倒的な迫力!
千手観音は40(×25)+2本もの手に、非常にいろいろな種類の持物をもちます。そのため、一体の完成された像としてバランスを取るのは、非常に難しいです。往々にして「やりすぎ」感も出てしまうのですが、その点この像は非常にうまく処理しています。それぞれの手が短いのが特徴で、巨大な鎌倉彫刻でありながら、とても静かな印象があります。

そして、この千手観音像と対照的な鎌倉時代の傑作が、かの有名な《天燈鬼・龍燈鬼像》(康弁作・鎌倉時代・寄木造・桧材)です。

私は美術史を勉強してはいるのですが、実は大学に上がるまで、奈良に行ったことがありませんでした。奈良にある仏像やお寺というのは、受験のために日本史の勉強で叩きこまれていても、現物を見たことが長らくなかったのです。
特に鎌倉時代の文化史……慶派の系図を覚えるのは、大の苦手でした。康弁って誰! 天燈鬼・龍燈鬼なんて聞いたこともないんですけど! でも実物を見たらマジですごかった!! いやはや、「百聞は一見に如かず」とはこのことです。

帝釈天の部下で、東西南北を守る四天王は、たいていどこでも邪鬼を踏みつけています。仏教が日本に伝わってから二千年近くもの間、彼らは踏まれ続けているのです。何をやらかしたのか無学な私にはよくわかりませんが、とにかく踏まれ続けています。これだけ踏まれまくっていたら、もしかしたらどこかでいけない悦びに転化しちゃうのでは……とか考えてしまう私のほうが、おそらく邪鬼よりよっぽど邪心にあふれているのではと思います。

えっと、なんの話してたんだっけ。天燈鬼と龍燈鬼ですね。この踏まれまくっているドM邪鬼が、仏様を照らすために燈籠を持って立ち上がったのが、この一対の像です。かわいいんだ、これが。

見分け方は簡単で、身体に龍っぽいのが巻きついているのが龍燈鬼です。ふんどし姿が男前ですね。大きな玉眼がぐりぐりと輝いていて、静かな気迫をたたえています。
天燈鬼は角が二本ついている方で、まさに鎌倉期らしいすさまじい筋肉表現がみどころです。「どりゃー!」とか「うりゃー!」とか、セリフをつけたくなるアグレッシブさです。踏まれ続ける人生から解放された喜びが、腕や胸の筋肉からほとばしっています。写真より実物の方が、やっぱりカッコいいですね。

さて、ここまで国宝館の作品をいくつか取り上げてきました。ですがなんということでしょう、メインであるはずの天平期の像について、まったく触れられていません!!

本当は一記事で終わらせるつもりだったのですが、無理っぽいです。後篇に続く。

2014年6月11日水曜日

東寺―圧巻の立体曼荼羅に酔う


今回からは、6/2~6/7までの一週間で見に行ったお寺を、ひとつひとつまとめていきたいと思います。


最初に行ったのは、京都の東寺(教王護国寺)です。平安時代初期に、嵯峨天皇が空海=弘法大師に下賜したお寺として有名ですね。新幹線から見える五重塔を目にすると、「ああ京都来たなあ」としみじみ感じます。






いつも京都の八条口の近くに宿を取るので、行くたびに早起きして、散歩がてらにふらっと20分ほど歩いて訪れるお寺です。8時半から拝観可能なのも嬉しいですね。


「曼荼羅」ってなに?



何といっても有名なのは講堂の《立体曼荼羅》です。公式サイトの英語の説明も"3D Mandara"。カッコいい。3D映画みたい。
「曼荼羅」ということばはけっこうアバウトな定義でもちいられますが、今回は狭義の曼荼羅――密教において悟りの世界を抽象的に描いた一連の絵画についてお話ししましょう。
曼荼羅のなかでもとくに有名なのは、密教の最高仏である大日如来を中心に据え、悟りのかたちをさまざまな仏を用いて、象徴的に配置した「両界(両部)曼荼羅」です。両界というのは「ふたつの世界」のことで、『大日経』に説かれる「胎蔵界」と、『金剛頂経』に説かれる「金剛界」をさします。違う経典に描かれた違う悟りの世界を、ひとつの曼荼羅に統合してビジュアライズしてみせたのですから、これは本当にたいへんなことだと思うのです。

で、この両界曼荼羅を日本に初めて持ち込んだのが、ほかならぬ空海です。それゆえ空海のお寺である東寺には、いまなお多数の"2D版"両界曼荼羅が残っています。
残念ながら空海が直接持ち込んだ両界曼荼羅は現存しないのですが、「西院本」と呼ばれる両界曼荼羅は非常に有名で、日本最古の両界曼荼羅といわれます。





《西院本 両界曼荼羅》(双幅・平安時代・九世紀・絹本着色・国宝)


順番に見ていくと、世界の生成と変化、そして仏の智慧があまねくゆきわたる過程を、まるで蓮華の花が開いたり閉じたりするような描写で、表現していることがわかります。うねり、ねじれるエネルギーの変遷を、静的な画面で描ききるのが、曼荼羅の魅力です。


曼荼羅の世界に溺れる――空海のインスタレーション



さて、《立体曼荼羅》の話に戻りましょう。正式名称は《羯磨曼荼羅》といいます。羯磨(かつま)とはカルマ(業)を音訳した語ですが、「羯磨曼荼羅」は通常、曼荼羅を立体/彫刻で表現したものを指します。

立体曼荼羅は大まかにわけて四つのブロックに分かれます。

中央:五大如来
如来とは悟りを開いた存在全般をさすことばであり、「ブッダ」も本来「如来」と同義です。個人名ではないのです。
ここでは大日如来と、東西南北を支配する四体の如来像がおかれています。
通例、悟りの境地に達した如来は、簡素な衣しか身に着けません。ただし《大日如来坐像》(室町時代・15世紀・重要文化財)は例外。すべての如来の中の王である大日如来は、宝冠、瓔珞(首や胸の飾り)、天衣など、インドの王族をモチーフとした豪奢な衣装をまといます。あらゆる仏に変身し、あらゆる衆生をあまねく救済するという、なんだかスケールの大きすぎる仏さまです。大日如来は過去・現在・未来すべてを包摂した、すべての宇宙そのものを表しているのです。

両手は「智拳印(ちけんいん)」という印相(いんぞう)を結んでいます。仏の世界と衆生の世界が、堅固な智慧によってむすばれることをあらわします。

印相、というのは仏像が手で作るサインのことです。twitterでふた昔まえに流行った、軍隊式のハンドサインと似たような感じですね。もともとは文字が読めない層にも、「この仏さまが何を言っているのか」をわかりやすく説明できるように考案された、と考えられています。
「にっこにっこにー☆」がにこにーを表す、みたいな感じで、どの仏がどの印相を結ぶかはおおかた決まっています。いくつか覚えていると、だいたい名前が分かるようになってきます。

右ブロック:五大菩薩
菩薩は如来一歩手前の存在。まだ修行中の身であるため、迷える衆生を救うために実働部隊として働いてくれる、ありがたい存在です。
菩薩はきらびやかに荘厳(しょうごん=飾り付け)されていることが多く、ひときわはなやかで目を引きます。この五菩薩は一木造に漆で仕上げをされており、天平末期から平安初期にかけての、技法の移行期を示す好例となっています。

左ブロック:五大明王
明王は武闘派の実働部隊、とでもいうべきでしょうか。なかなか帰依しない衆生(私だ…)を力づくで調伏しようとする、仏法の守り神です。忿怒の表情が特徴的です。
中央で紅蓮の炎の光背を負う《不動明王像》(平安時代・国宝)は、不動明王としては最古の作例のひとつで、かつ優品としても知られています。右手には両刃の剣、左手には悪人をとらえる羂索(縄)を持っています。
この恐ろしい不動明王像も、優美な菩薩像も、すべては大日如来が衆生を救うために変化した姿。やっぱり、スケール大きい……。

右端/左端:天部
天は仏教に帰依した異教の神々のことをいいます。ここでは帝釈天と梵天のペア、そして持国・増長・広目・多聞の四天王像が、両端に配されています。
帝釈天はヒンドゥー教のインドラのことです。もともとは戦闘にすぐれた神で、阿修羅のライバルでもありました。白象に乗っているのは密教独自の造形です。
この東寺の《帝釈天半跏像》(平安時代・国宝)、なかなかの美男の像として非常に人気があります。斜め前から見るのがカッコいいんですよね。象もけっこう男前。

いっぽうの梵天はブラフマーのこと。宇宙の創造を司る神で、インドラと共に仏法の守護神となっています。こちらが乗っているのはハンサと呼ばれる聖なる鵞鳥のこと。鵞鳥三羽で神様を支えてるの、結構重そうでちょっとかわいそうです。
また、東寺の四天王像は、重々しい衣装と硬めのポージングによる、抑制された表現が特徴的です。持国天の怒りのポーズは一体だけ異色ですね。


日本一の高さの五重塔



さて、「京都来た感」をバッチリ思い起こさせてくれる東寺の五重塔ですが、54.8メートルという高さは、木造の塔では日本一。東大寺の大仏殿よりも高いです。
特別拝観のときのみ、初層部分に入ることができます。今回は残念ながら入れなかったのですが、去年行ったときにはお参りすることができました。

心柱のまわりには四体の如来像と八体の菩薩が配されていて、ここも密教空間が立体的に表現されています。ちなみに大日如来の像はないのですが、これは塔の心柱を大日如来に見立てていることによります。
また、四本の側柱には竜神の像が描かれていますが、これは火事避けのため。五重塔はしばしば落雷により焼失してしまうのです。

四方の壁には、真言八祖とよばれる高僧の像が描かれています。真言宗をインドから中国、そして日本へ伝える際に活躍した、八人の祖師のことです。その系譜の一番最後にいるのが、空海。禅宗の系譜などもそうですが、歴代の高僧のお名前ってむずかしくて、なかなか覚えきれません……。




それ以外にも金堂の薬師如来・日光月光菩薩像や、観智院の虚空蔵菩薩、行くたびにおりおりの花が楽しめるお庭など、見るところはまだまだたくさん。
東寺は伽藍自体はさほど大きくないのですが、見ているだけで相当にエネルギーを使います……密教芸術、恐ろしい。



帰り道、駐車場の車の周りを延々ぐるぐる追いかけっこしている雄鴨と雌鴨に出会いました。こーのバカップルめ!末永く爆発しろ!

2014年6月10日火曜日

特別展「チベットの仏教世界 もうひとつの大谷探検隊」@龍谷ミュージアム

一週間の仏像めぐりの旅の最後の最後に、「チベットの仏教世界 もうひとつの大谷探検隊」@龍谷ミュージアム/(チラシpdf)に行ってきました。本当にすばらしい展覧会だったので、会期が終わってからレビューを書くことになってしまったのが、とても残念です。






衝撃!超細密《釈尊絵伝》


龍谷ミュージアムのすぐ目の前にある、西本願寺。20世紀初頭、この地から遥かチベットへ送り出された、ふたりの学僧がいました。彼ら――青木文教と多田等観はともに非常に現地に溶け込んだ修行生活を送りました。そして、当時のチベットの貴重な記録や文献を、ダライ・ラマ13世の信任のもと、大量に持ち帰りました。
この展覧会では、チベット仏教美術の諸相を紹介するとともに、写真や史料を通じて、「彼らが見たチベット」の姿にも、焦点を当てています。

メインの展示は、なんといっても《釈尊絵伝》(全二十五幅・17世紀頃・綿本着色)。これは歴代のダライ・ラマに受け継がれていたものですが、ダライ・ラマ13世から多田に贈られました。
多田はインドでチベットに入る機会をうかがっていた最中、亡命中だったダライ・ラマ13世に出会い、彼から直々にラサへの招きを受けます。以降彼は、ダライ・ラマ13世からたびたび諮問を受けるほどの絶大な信頼を得ました。

《釈尊絵伝》は、釈迦が母の胎内に宿る瞬間から、修行の果てに悟りをひらき、涅槃にいたるまでの生涯を、空前絶後の細やかさで描いています。釈迦の全生涯を絵画に残すという試みが、これほどまでにあざやかに、そして壮大なスケールで残っている例は、他にほとんど類をみません。
25幅のタンカ(仏画)の上では、異時同図法を駆使して、釈迦が出会ったあらゆる人、出来事、苦しみ、喜び、そして悟りの境地が、泡のように順々にあらわれては消えていきます。きわめて説明的な絵画を追うことで、私たちは釈迦の生涯を追体験するかのような錯覚に陥ってゆきます。

釈迦の生涯や前世での行いを説明的に描く「仏伝図」は、仏教美術のなかでももっとも初期から存在するジャンルのひとつです。経典の読めない層に説法をおこなうために、非常に重要な役割を担いました。ガンダーラ/マトゥラーの時代から現代まで、仏伝図に描かれるテーマと構図は、経典によってかなり厳密に決まっています。

釈迦が白象となって摩耶夫人(まやぶにん)の胎内に宿る「托胎霊夢」、ボダイジュの下で悟りを開く「降魔成道」、初めて説法をする「初転法輪」……主題として人気があるのはいつの時代もだいたい同じで、たいていは劇的な場面です。《釈尊絵伝》ほど細かく、そして情熱的に釈迦の一生を描ききるという作品は、なかなか存在しません。

初期の仏教文化を保存していると同時に、ヒマラヤ山脈のふもとで独自の発展を遂げた、特異な美術製作のありかたは、日本という仏教文化圏の東の果てに身をおく私たちから見ると、未知なる驚きと発見にあふれています。
きわめて官能的で装飾的で、生と死の香りが濃厚に漂う仏像の数々――きわめて個人的な印象ですが、「情熱」や「陶酔」というキーワードが、チベット仏教美術を読み解く際の、ひとつの鍵になるのではと思います。

立ち上る炎のような―チベットの仏像


展示品のなかでも特に度胆を抜かれたのが、《十一面大悲観世音菩薩立像》(14世紀・中国・元時代)でした。「大悲」とは、菩薩がわれわれにかけてくださる「慈悲」のことです。長谷寺の、あの巨大な十一面観音菩薩立像が納められているお堂も、名称は「大悲院」ですね。

チベットは観音信仰がきわめて盛んな土地です。その国土と衆生は観音菩薩の「所化(しょげ)」、すなわち、観音菩薩が守り、導き、統治する世界だとされています。
代々チベットの政教のトップに立っているダライ・ラマも、観音菩薩がひとの姿に化身した存在だといわれます。

観音菩薩は衆生を救うために、実にさまざまな姿に変化します。十一面観音はそのひとつで、すべての方角にいる衆生をあまねく見守り、救済してくれることをあらわします。

日本の十一面観音は多くの場合(前の記事の画像がわかりやすいですが)、大きなノーマルなお顔の上に、頭をぐるりと取り囲むように十一面が配されます。その上には、観音の上司である阿弥陀如来のお顔(化仏)が載っています。

しかしチベット式の十一面観音は、下から三面・三面・三面・一面・一面と、まるで塔のようにお顔が積み上がっていきます。今回の旅行でおそらく十数体は十一面観音をみてきましたが、まったく違う様式に、ちょっと「怖い」と感じる部分もありました。慣れたら印象は違ってくるのでしょうが、かなりショッキングでした……。
また、日本の十一面観音は二臂(二本の腕)の場合が多いですが、この像は八臂です。そして天衣(首にかけて足まで流れるストール)は、炎のように上へねじれています。全体的に「上昇」というイメージが貫かれていて、とてもおもしろかったです。

あと、チベットの仏教(特に後期密教)美術のなかで独特な位置を占めるのが、女神の像です。日本でも吉祥天や弁財天など(多くの場合富と豊饒の)女神のモチーフはいくつかありますが、チベットではヴァジュラヨーギニー、ヴァジュラヴァラーヒーをはじめ、とにかくエロティックで、血なまぐさい女神の像が人気を博しました。

今回展示されていた女神・ヴァジュラヨーギニーの立像は、右手にカルタリという斧を持ち、髑髏を繋いだ首飾りをつけています。そして左手には、なんと頭蓋骨の杯をかかげており、なみなみと満たされた血を飲み干そうとしています。怖すぎ。
とはいえ、こういった類の女神は、ヒンドゥー教の殺戮の女神カーリーを髣髴とさせるところがあります。濃密なエロティシズムの発露というだけでなく、双方の文化的な「近さ」も感じますね。

「つながり」と「違い」―異文化ということ


あんまり関係ない私事なのですが、もともと私は中学校の頃から、お寺を巡るのが好きでした。しかし仏像に興味があるわけではなく、単にお寺のゆっくりとした時間の流れが好き、くらいのものでした。
初めて「仏像おもしろい!」と思ったのは、高校一年生のときの、忘れもしない――上野の森美術館で開催された「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」でした。かなり議論が紛糾した展覧会でもありましたが、まだ仏像について右も左もわからないうちに、チベットの仏像をナマで見た衝撃たるや。父と一緒に見に行ったのですが、あまりにも妖艶な「ヤブユム(歓喜仏)」を前に卒倒しかけたのは、いまとなっては良い思い出です。

というわけで、実のところ私の仏像好きの原点は、他でもないチベットにあるのです。
そのあと、タイやラオスのお寺をいろいろ巡ったりしましたが、毎回海外の仏教寺院で感じるのは、「ああ、ここは遠い地だけれど、確実に日本とつながっているな」という思いです。チベットの仏像を見たときも、それは同じです。

今回の展示では、参考出品としてガンダーラの仏伝彫刻がいくつか出ていました。仏教美術の世界的な「原点」といえるでしょう。そこから出発して、中東、チベット、中国、東南アジア、朝鮮、日本――それぞれの文化のなかで作られた仏像を見ることで、私たちは時代・地域を越えて「変わらないもの/異なるもの」がそれぞれ確かにある、と感じられます。これこそ、仏教美術のきわめて意義深い点ではないでしょうか。

十一面観音菩薩の像は日本とチベットで全く異なる造形ですが、しかし十一面観音菩薩であることに変わりはありません。そして観音さまにお参りするひとの心の持ち方も、時代・地域を越えて「同じ」でかつ「つながっている」といえるものがあります。
その感覚は、もしかしたら……仏教の根本に横たわる「縁」に通じる、なにか、なのかもしれません。
決して信心深くはなく、知識もまったくない身ではありますが、仏さまと対話することで、そういった思いを馳せることができたのが、今回の展覧会でした。

奈良・京都の数百体の仏像を拝む旅の最後に、ガンダーラ仏とチベット仏という、二つの「自分の中の原点」に出会うことができたのは、まさに僥倖でした。本当に、行ってよかった展覧会でした。このような、人生を変える機会にまた出会えることを、楽しみにしながら生きていきたいです。

2014年6月9日月曜日

特別展「南山城の古寺巡礼」@京都国立博物館




一週間にわたる奈良・京都旅行があまりに楽しかったので、感想をどこかに書きたいとずっと思っていました。その折に友人から「ブログにしたら?」という助言をいただいたので、とりあえず小分けにして記事をアップすることにします。
美術展ふたつと20のお寺。すべて書き上げるまでに、いったい何日かかるのでしょうか……。

時系列順に追っていきたいと思いますが、まずは京都で見たふたつの特別展からお話ししましょう。どちらもたいへんにおもしろい展覧会で、最終日に予定をむりやり詰めこんで、駆け込みでふたつ見てしまったのが悔やまれます。


南山城に残る名品をたどる






京都国立博物館の特別展「南山城の古寺巡礼」。6月15日まで。

京都と奈良のあいだに位置する「南山城」。この地は古代から交通の要衝として栄え、奈良時代にはこの地に「恭仁宮」がおかれました。そのため、木津川沿いにいくつもの古刹が散在しています。
この展覧会では、南山城に残る十一の古刹に順番にフォーカスを当て、それぞれの寺が所蔵する仏像・絵画・考古遺物などを展示します。

天平時代から弘仁・貞観期に、日本の仏教美術史は乾漆像と木彫双方において、技術的頂点をみることになります。そして国風文化期には、そのような完成された技術と日本独自の美学を融合させ、爛熟へいたります。その舞台となるのが、まさに奈良と京都です。
そして、今回とりあげる南山城の文化の底流にあるのは、このまったく異なる二つの地が放つ、エネルギーの波のぶつかり合いです。木津川のほとりの静かな山間で、その波は薄らいで止まり、納められた優品の数々は、そこで千年、いやそれ以上の時を過ごしました。
この展覧会で得られるのは、体系としての歴史の知識というより、むしろ仏師たちが作品に注いだ、情熱の変遷をたどる……という、とても感覚的な体験だといえます。

弘仁・貞観期の如来坐像――奈良と京都のはざま


たとえば、蟹満寺の《阿弥陀如来坐像》(平安時代・九世紀)は、きわめて明瞭に弘仁・貞観期の様式を反映しています。造立当初は、おそらく薬壺を持つ薬師の像だったのではないでしょうか……。この時期には、まだ阿弥陀信仰はそこまで流行っていませんからね。

肩から腕にかけての量感ある作風は、当時流行していた檀像風のものです。力強い造形は、室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像などと、対比してよいでしょう。
この時期には遣唐使の手により、最新の「檀像」が中国から流入します。日本でも乾漆像から木彫への移行がすすみ、作風も檀像にあわせた、肉付きのきわめていい、ふっくらとした造形へ変化します。この阿弥陀如来像は、仕上げに乾漆を一部用いており、奈良から京都へと都が、そして造像の様式が移行する時期の、ひとつの如実な例を示しています。まさにこの展覧会にふさわしい像ですね。

しかし、蟹満寺(かにまんじ)ってかわいい名前ですよね。おじいさんとその娘をたぶらかして、求婚しようとする蛇を、娘に助けてもらった蟹がハサミで断ち切る……という、「蟹の恩返し」の伝承で有名です。乙女ゲー一本作れそうな、アツいストーリーじゃありませんか。蟹はたぶん赤髪の正統派イケメンですね。
ただ、私は蛇エンドでもアリだと思います。現代日本だと、蟹より人気出ちゃうんじゃないかな、蛇……。いや、乙女の業は深い。


慶派の四天王像が超カッコいい!


また、見ていてちょっとぎょっとしたのが、海住山寺の《四天王立像》(四躯・鎌倉時代・重文)です。像高36cm~38cmという、せいぜい「フィギュア」程度の大きさながら、その造りこみは圧巻のひとこと。彩色もきわめてよく残っており、四天王像を見るときのお手本として最高です。
この四天王像には、どうやらオリジナルがあったようです。快慶の工房作で、なんと置かれていたのは東大寺の大仏殿。像高は四丈三尺(13メートル)!あの東大寺南大門の金剛力士像ですら8メートル強なのですから、いかにすさまじい像だったかがわかります。
大仏・虚空蔵菩薩・如意輪観音の三体ですら圧倒されますが、そのうえそんな巨大な四天王像までいたら、正直、めっちゃ怖い。若干巨像恐怖の気がある私は死んでしまいそうです。

四天王は帝釈天(=インドラ)に仕える四体の神で、東西南北を守護します。顔の色もそれぞれ方角に合わせて決まっています。東(=青春・青)は持国天南(=朱夏・赤)は増長天西は(=白秋・白)は広目天北(=玄冬・黒)は増長天/別名毘沙門天 の担当です。このへんは設定として決まっていても、剥げてしまっている場合がほとんどで、実際に見られたのはこの像が初めてでした。
くだくだ説明するより「百聞は一見にしかず」というのが、仏教美術のいいところ。四体をぐるりと回って見たほうが、説明よりずっと手っ取り早いです。

しかし、東大寺は戒壇院や法華堂にも、きわめてすぐれた四天王像が残っていますが、大仏殿にもそんなダイナミックな四天王像を造っていたのですね。っょぃ。ポケモンだったらチャンピオンに辿り着く前に心が折れます。

なんだか関係ない話になってしまいましたが、そのように奈良・京都(あるいは鎌倉!)の仏像がもつ様式というものを、他の作例と非常によく連関したかたちで保存しているな、というのが、この展覧会を総合しての所感です。国風文化期にもなれば、明王像ですらどれも穏やかなお顔付きだったりして、とてもおもしろいです。

あと、やっぱり写真や説明を見ていて、実際に現地に足を運びたくなりました。浄瑠璃寺のインパクト抜群の九体阿弥陀像などは、やはりお寺で空間ごと味わう必要があるなあとしみじみ。一週間いろんなお寺を見て歩きましたが、あと三日欲しかったです。
三日あれば、このあたりにも足を伸ばせたのにな……。いやはや、視線への尽きぬ欲望の世界は恐ろしい。



☆特別展「南山城の古寺巡礼」@京都国立博物館
4/22(火)~6/15(日)
9:30~18:00(金曜日は20:00まで)
休館日:月曜日